田口隆寛
TAKAHIRO TAGUCHI

1989年5月10日 埼玉県川越生まれ

10歳ぐらいの頃、確か1998年に任天堂から発売されたゲームボーイソフトのポケットカメラと衝撃的な出会いをする。
ポケモンをやりつつポケットカメラでオモチャを撮ったり公園でお花や虫を撮ったり、景色を撮ったりしてた。

2000年5月頃CASIOから発売された世界初の腕時計型カメラとまたしても衝撃的な出会いをする。
ちょうど12歳だと思う。
母子家庭で貧乏だったが、なぜか25000円もするCASIO WQV-1を購入していた。
最大画素数は28000画素で、1MBの時計本体の容量に保存してたというから2020年の今からしてみれば驚きだ。
本体には100枚しか画像が保存できなくて、いつもいつも満タンになったらお気に入りの写真を消しては撮る消しては撮るの繰り返しだったのを今でも覚えている。

当時から写真が好きだった私は、もちろん高価なデジカメや一眼レフなんて買えないので、コンビニで売ってる富士フィルムの写ルンですで出掛けるたびに一枚一枚大切にそして慎重に写真を撮っていた。

私の家はいつも近くに写真があった。
母は長女と長男である私の成長記録を残すために小さな頃から写真を撮っていたからだ。
気付いたら写真を撮ることが当たり前になっていた。

実は小学4.5年生からPHSをもっており、
確か中学の頃にはdocomoのガラケーも持っていた。
その頃、今はSoftBankであるがその前のVodafoneよりも前のJ-PHONEで初めてカメラ付き携帯が発売された。
「カメラ」という単語に目がない私はdocomoを捨ててJ-PHONEを使いたかったが、それは叶わなかった。

いつのまにかdocomoでもカメラ付き携帯が販売され気づくと15〜30秒ほどの動画が撮れるようになった。
確か名前はi-modeとかmovaとかFOMAみたいなやつ。
ほんで、拡張子は3g2とかmp3だったよね。

昔は今みたいに機種変更するときに携帯をショップに返したりしない。
だから人から要らなくなったカメラ付き携帯を貰っていたのだ。
実を言うと今でも当時使っていたガラケーと趣味で集めていたガラケーが10個くらいある。

確かこのN900iで初めてムービーが撮れる携帯デビューした記憶がある。これは実際に今でもあるガラケーのほんの一部。

カメラ付き携帯で数え切れないほどの写真を撮った。
人や物、景色や自然。
何ら今と変わらないことをしていたのだ。

高校生くらいの時に初めて
FUJIFILM FINEPIX Z
でデジカメデビューを果たした。
ズーム機能がこんなに素晴らしい物なのかとズームばっかりして。風景とか記念写真とか何でもかんでも撮りまくっていた。

WindowsXPのPCに取り込んで良く写真を見てたもんだ。
気に入った写真はコンビニでL版サイズで現像してタバコのヤニで真っ黄色になってた部屋に飾ってました。

時が経ち知らない間にdocomoのガラケーからSoftBankから出たiPhone4になっていた。
今までのガラケーは一体なんだったのだろうか?という驚きと始めて手にするタッチパネルなど全てのことに感動したのを覚えている。もちろんカメラの性能も凄かった。

メインカメラが800万画素、960×640ドット動画は720p HDの最大30fpsだ。iPhoneに切り替える前のN905iのカメラの性能は520万画素640×480ドット30fps
この変わりようはびっくりした。
20歳だった私はまだお金が無い。
一体一眼レフはいつ買えるのだろうか笑

もちろん、普段の趣味の写真はiPhoneしかも容量も大きいので、撮りまくって消さずに容量だけ増えていく。
そんなカメラ少年はいつのまにか大人になっていた。

ある時求人を探していた私はカメラマン募集という文字を見かけその日のうちに応募した。
面接にはあなたの作品を持参して下さいと言われ、そんなん持ってねーとか思いながら
普段iPhoneやデジカメで撮り貯めていたお気に入りの何枚かを作品として面接に持っていった。
その後あっさり合格。

すぐにレディースファッション会社のカメラマンとなった。
ここからがある意味地獄のような日々が始まる、、、笑

すんなり人を撮影させてもらう訳ではない。
ネットショップなので、写真を撮らない事にはwebに商品を掲載することが出来ず、ベンチャーから急成長していた田舎の会社は人手不足ということもあり、売っては買って売っては買っての繰り返しで、web未アップ、そして未撮影の新作商品が数千~数万点は会社のオフィス内、通路、倉庫に人が歩けないほど溜まっていたのだ。

ということで、ココから2年間毎日朝から深夜0時過ぎまでブツ撮りの日々を過ごした。
几帳面な為、写真の上下左右対象など完璧にこなし、一日3000回はシャッターを切っていた。
同時にその会社の風潮でレタッチはアップル社製無料ソフトのApertureだった。
当時はお金が無いから有料のPhotoshopやLightroomや使わせてもらえなかった。
どっちにしろ、なんのソフトでレタッチをやろうが、色味の調整をやる事には変わりはない。

気づけば撮影部署の部長。
部下やレタッチャーチームに色の再現の仕方や何をどうすれば持っていきたい色味に近づけられるのかなどを教えていた。
自分でもびっくりするぐらい色味を忠実に再現出来るようになっていたのだ。

会社で使っていたのはCanon EOS kiss X5.7.8iとCanon 5D mark3だった。
でも、ECのブツ撮りなんてEOS kissで十分だ。結局色味補正もするんだしね。
頼むから俺にLightroomを使わせてくれ、、。
かなり謎だった、、。

色んな所を割愛して順番もバラバラだが、少し過去に戻ろう。
ある日自社のモデル撮影の現場に人手が足りないと聞き、死ぬほど怖かった社長に、

「僕も撮影現場に行かせて下さい!!!!」

って静かなキーボードの音しかしないオフィスで社長に頭を下げたのを覚えている。
撮影当日、初めて有名カメラマンの撮影を目の前で見ることができた。
その人が後の私の師匠でもあり先生でもある
写真家 橘田龍馬さんだったのだ。



当時の写真がこちら。初々しくて笑える。

もちろん【モデル】と呼ばれるお姉さんと会うのも初めて。
緊張しかしなかった。
その撮影現場にアシスタントとして何もわからないまま一心不乱にできる仕事を自ら探して撮影を無事終えた。

その後、社長伝いにカメラマンの橘田さんから、「あの子仕事出来るしいいね。」だってよ。
と言われ気に入ってもらえて、次回からモデル撮影の現場も私がアシスタントとして参加することになったのだ。

それから数年が経ち、撮影現場に慣れてきたアシスタントだった私は全ての撮影を任される撮影プロデューサーでありディレクターになっていた。
撮影部署の部長を務め、部下も5人ほどいた。
専用のオフィスも作って頂き、
10mくらい天井が高い広々とした撮影スタジオも社長に作っていただくまでに成長したのだ。
もちろん私が凄いんじゃなくて会社の売り上げが凄かったからだ。

確かその頃は、ご存知の方もいると思うが、楽天オブザマンスと言って、楽天市場のレディースファッション部門で日本一の売り上げを取ったりしていた。
ショップオブザイヤーとかも取ってた気がした。忘れたけど笑
とにかく死ぬほど売って小さなベンチャーから一つの有名会社になる急成長の時代に私は全パワーを尽くしていた。

楽天カンファレンスに呼ばれ高輪プリンスの会場に私の顔が大きく映し出されたり、楽天が開催するリアル販売のイベントなど様々な催し物に私は呼ばれているぐらい忙しかった。

展示会で買い付け、届き次第全身コーディネート、物撮り、レタッチ、モデル撮影企画、社長提案、キャスティング、スタジオロケハン、香盤表作成、アポイント、電話メール対応、面接、各モデル事務所、マネージャーへ連絡、各スタッフ、カメラマン、ヘアメイク、モデル、着付師などの手配、撮影当日は現場監督、撮影の準備撤収、東京までの運転、朝食、ケータリングなどの買い出し、タイムキーパー、時にはカメラマンやるし、営業もやるし、ポップアップで大阪に出張に行ったり東京に出張に行ったり、、、

撮影に関する事は全部一人でやってた。もちろん他にもスタッフはいたけど。
群馬に住んでるのに、毎日高速乗って車で東京まで行って、半月東京で仕事してる時もあった。
原宿駅の前にあるコープオリンピアに事務所件スタジオがあったからいつもそこにいて、いつもそこで寝泊まりして出張や撮影をこなしていた。
忙しすぎて、俺自身にアシスタントを付けてた。というか部下がアシスタント状態だった。
キツかっただろうなー。みんな。
そんなことを数年やってました。

そこそこ、給料ももらってて地位も権力もあって特に不満は無かったけど、なんか自分が一番やりたい本質と違うんだよなーって思って。


当時は80人くらい従業員がいる中で
古株であり、信用も信頼も実績もあった私は退職することにしたのです。

そんな私がその当時知り合った数々の大企業様との人脈やツテを使わずに東京に知り合いが一人もいない状態でどこまで出来るんだろう?

という気持ちから、新たな土地、東京での挑戦が始まるのであった、、、